預かった子供の一生を背負う

及川裕巳氏
翔栄学院 創業者。大学卒業後、大手電気メーカーに入社。学生時代の同級生であった田野倉氏(現会長)と共に、副業として幼稚園の集会場を借りて週1回の塾を開設。その後、教育への責任感から「翔栄学院」を設立。2022年にNYC株式会社へ事業を承継し、現在は創業者として経営のバトンを繋ぐ。
始まりは「自分へのリベンジ」
私の教育への原点は、「思うようにいかなかった」自分自身の経験にあります。高校受験、大学受験、そして就職。振り返れば、第一志望を勝ち取れた経験は一度もありませんでした。
大学卒業後、メーカーに勤務していましたが、1年目は仕事が比較的暇だったこともあり、同じ会社に就職した学生時代の同級生・田野倉と「何かやろうか」と、週に1回だけの塾を始めたのが全てのきっかけです。当時は今とは違う塾名で、集会場を借り、土曜日に自分たちで机や椅子をセットして英語と数学を教えていました。
教えていくうちに、あることに気づいたのです。「中学生や高校生の頃の自分は、こんな風に教えてもらえていれば、もっと違う結果になっていたのではないか」と。自分が教えている内容を、当時の自分は何も知らなかった。それを知っていれば、道は開けていたはずだ。そう気づいた時、かつての自分と同じ悔しさを生徒に味わわせたくないという想いが、私の一生を突き動かす原動力となりました。
「子供の一生を預かる」という責任感、そして覚悟の借金
当初は副業でしたが、ある時「片手間にやっていられる仕事ではない」と確信しました。「子供の一生の一部を背負っている」という逃げ場のない責任感を感じ、徹底的にやるために本業にする覚悟を決めました。
本業としてのスタートは、古い物件でした。自分たちでペンキを塗ることから始め、周囲からはボロボロの塾と思われ、集客に苦労した時期もありました。
転機は、町田に2番目の教室を出す際です。物件が見つからず「ならば土地から探して自分で建てよう」と決意しました。当時、私は結婚し、子供も生まれたばかりでしたが、6,500万円という多額の融資を受けました。「本当に大丈夫か」という不安もありましたが、その借金のおかげで「より一層頑張らなければならない」という強いエネルギーになりました。休みなく、試験前には明け方まで手作りプリントを作り続ける。その泥臭い執念が、高い合格実績へと繋がっていったのです。
35年の節目に直面した「逆境」と、NYCとの出会い

八王子・町田・あきる野エリアで35年以上に亘って塾を経営してきましたが、時代と共に経営環境は一変しました。少子化の加速、テクノロジーの普及。さらには経営陣の年齢を考えると、後継者不在という課題が重くのしかかっていました。
逆境の中にありながらも、毎年多くの生徒が通ってくれる。「自分が動けるうちに、彼らのための成長基盤を固めておきたい」。そう考え、事業承継へ動き出した中で出会ったのがNYCでした。
教室の玄関先で、NYCの若いメンバーが賑やかに話している姿を初めて見た時は、正直「大丈夫なの?」という不安もありました。しかし、やり取りは驚くほどスムーズで、提案には若いながらも確かな納得感がありました。何より、私が掲げた「翔栄学院の形を残す」「社員の雇用を継続する」という条件に一点の相違もなかったことが、決断の決め手となりました。
承継を経て見えた、新しい「選ばれる塾」の姿
事業を承継してから、翔栄学院は鮮やかな変革を遂げています。
これまでは私の「感覚」に頼っていたマネジメントが、NYCの手によって数字に裏打ちされた経営へと進化しました。組織体制の構築、研修や会議体の設計、Webマーケティングの強化。自分たちだけでは手が回らなかった領域に次々と着手できたことで、現場のスタッフの意識も目に見えてポジティブに変わってきました。
昨年の2月までは私自身も教壇に立っていましたが、今は一歩引き、経営会議等で「翔栄の考え方」を提示し、皆の議題を検討する立場にいます。現場を離れた寂しさはありますが、社員たちが自律的に成長し、楽しそうに未来を描いている姿を見ることが今の私の喜びです。
少子化という厳しい環境下ではありますが、その中でも「地域に根ざしたローカルチェーン」として、子どもたちや保護者、そして現場のスタッフの想いを力強くサポートし続けてほしい。翔栄学院の第二の創業を、私は心から期待しています。
